Monday, 23 December 2024

ゆうゆうインタビュー 武蔵丸光洋

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90年代に、曙、若乃花、貴乃花などの優れた力士たちと大相撲の黄金時代を築いた感想は。

素晴らしい体験でした。今後しばらく、あのような時代が到来することはないでしょう。もしかすると、二度と来ないかもしれません。 今もなお、 誰もがあの時代を話題にし、現在の力士たちと比較しようとしています。


——ご自身も含めて、あの当時の力士たちは、誰も真似できないような至芸を披露していました。
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Two Hawaiian sumo legends, Musashimaru (L) and Konishiki (R), confer during Musashimaru’s ceremonial knot-cutting at Tokyo’s Ryogoku Kokugikan. © Kyodo
 

スポーツにおいて異なる時代の選手を比べることは難しいものです。人々は古今の比較を好みますが、 親方の立場から言えば比較することは無意味なのです。私の時代には4人の横綱が存在しました。これは、永い歴史の中で一度起こるかどうかという稀な事態であり、特別なことなのです。その一角を担えた私は幸運でした。説明するのが難しいのですが、それは何とも言えない刺激的な出来事でした。


—— 強豪がひしめく中での通算連続勝ち越し55場所という成績は、特別な響きがありますね。

ありがとうございます。現役時代の十数年間、私は本場所で負け越しを記録しませんでした。この成績がいつ誰によって破られるか分かりませんが、当分は保持できることと思います。私の記録が打破されるかどうか、自分でも大変興味深いところです。


—— 千秋楽では常に4人の横綱同士の対戦となったようですが、相撲のレベルも上昇したでしょうね。

勿論です。私たちは史上最高のレベルで戦いました。常に最良の状態を保たなければならず、毎日が挑戦の日々でした。さもなければ、チャンスを逃してしまうのです。最高のコンディションでなければ優勝を勝ち取ることはできないのです。


—— 好敵手と目していた関取はいましたか。
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Musashimaru in action during the Kyushu Grand Sumo Tournament.© Kyodo


大相撲は競争ではありません。それよりもむしろ、今日はこの力士、次は別の力士というように 1日1日の積み重ねなのです。こうして最後まで戦い抜かなければなりません。当時は横綱4人と大関5人が在籍しており、中日を過ぎると相手はトップの力士たちばかりで厳しい戦いが続きました。場所の前半も気を抜くことができません。1敗でも喫すると、すぐに優勝争いから脱落してしまうからです。優秀な力士たちが数多く揃うトーナメントで前半に敗けたり、ミスを犯すと、優勝戦線から外れてしまうのです。


——本場所の前半と後半ではどちらが苦しいですか。

両方です! と言っても、厳しさの内容はそれぞれ異なります。始めはまだ稽古場の気分が残っていますが、本場所の激しさというのは全く別の次元になります。また、本場所の取り組みは夕方に行われますが、午前中の稽古に身体が慣れているために混乱するのです。稽古期間中、私たちは昼寝を取ったものでしたが、本場所が始まるとその時間帯に身体を目覚めさせて勝負に挑まなければならないのです。このように、前半は本場所のリズムをつかみ、継続するという重要なポイントがあります。そして、後半戦は優勝が絡んで熾烈な戦いになります。


—— 一旦リズムをつかむと、楽になるのですか。

そうです。前半は自分自身を流れに乗せるのが大変なのです。


—— この時点で大型力士が番狂わせで敗れることがあるのですか。
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Musashimaru proudly holding a hard earned Emperor’s Cup, one 12 such tournaments he captured during his sumo career. © Kyodo


そう。動きが全開しないうちに、スキを突かれてしまうことがあるのです。本場所中は気分が良い日があったり、胃痛やしつこいケガに悩まされる日があったりと、毎日の状態が異なります。必ずと言っていいほど問題が発生し、全てが順調に進むことはありません。私が最も戦いやすかったのは「押し」を得意手とする力士でした。彼らは「押し」でなければ勝機がないので必ず突進してきます。それが私にはやりやすかったですね。


—— ハワイには素晴らしい相撲の伝統がありますね。力士を志した経緯は。

リクルートです。高校時代、私はレスリングとフットボールのディフェンスチームで活躍していました。レスリングの体重区分を多少オーバーしていた私にコーチが相撲を勧め、彼の知り合いを紹介してくれました。当時の私の体重は290ポンド(131.54kg)で、それがスカウトの目に留まったようでした。私も「挑戦してみるか」と思うようになり、私の相撲人生が始まりました。


—— 優れたフットボール選手でもあったのですか。

悪くなかったと思いますよ(笑)。オールスターチームに選出されたこともあるほどでしたから。しかし、コーチは私が相撲向きだと思っていたのです。高校でフットボールをしていた時の私の夢はNFLで活躍することでした。今でも、NFLで活躍する最高のラインマンと闘ってみたいと思っています。


——NFLの選手が相撲に挑戦したという噂を聞きましたが、その結果は。

本当のことを言いましょう。(微笑を浮かべ、頭を振りながら)ダメでした! 彼らは全く要領を得なかったのです 。


——ハワイから日本に渡り、相撲と異文化を同時に学んでいた当初は苦労が多かったと推察します。ご自身が正真正銘の力士に成長したと感じた時期は。

最初の頃は苦渋の日々でした。言葉は通じず、友達や家族が恋しくなり、他の誰もと同じようにホームシックにかかりました。20代後半で力士としての自信が付いてきたと思います。私が望むもの全てに可能性があり、土俵では「今日も敗けない」と感じるようになったのです。


——日本で力士を目指すことを知らされた家族や友人の反応は。
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A more relaxed Musashimaru during his recent visit to LA at Gyukaku restaurant in Torrance.


応援してくれる人もいましたが、多くの人たちはショックを受け、私に行ってほしくなかったようです。でも、私はとにかく挑戦することにしたのです。


——今では、親方が残した素晴らしい実績を皆さんが誇りに思っていることでしょう。

そうですね。喜んでくれています。


——親方には「稽古の虫」という評判が定着していましたが、特殊なトレーニング方法があったのですか。

特にありません。誰もが自分自身のやり方で稽古をしますが、私はそれをより厳しく自分自身に課していました。そのトレーニングが何であろうと、十分すぎるほどの稽古量をこなしていました。


——よく、アスリートは110%を課すと言いますが。

私の場合は220%でしょう! 私の稽古は早朝に始まり、午後そして夜間まで 1日中続きます。身体の鍛練、稽古、心構えに至るまで、大相撲の最高レベルの技量を披露するために備えるのです。これはまさに1日24時間を費やす仕事です。私は今でも、筋肉が付き過ぎない程度の軽い稽古を続けています。


——力士にはそれぞれの個性と得意技がありますが、親方のスタイルは。

相手を圧倒する迫力だったと思います。私の体型の利点でもあり、他の力士に比べてまわしを取られにくかったのです 。

——力士としての体格が完成するうちに、動きも自然になったのですか。

そうです。年月が経つにつれてさらに技術が身に付き、自分の可能性を信じるようになりました。横綱時代にはまわしを取る技術、押し手など、あらゆる手を自由自在にこなすことができるようになりました 。


——得意の型は。

腕を返して寄る右差しです。


—— 才能に恵まれたハイレベルの力士たちが肩を並べる中、精神面が勝敗を決する割合は。

かなりの割合を締めますね。90%と言っておきましょう。身体面は毎日訓練することで準備できますが、本場所が始まると全てが自分の責任となるので、逞しい精神力なくして最後まで戦い抜くことはできません。優れた力士は数多くいますが、誰もがこの状況を耐え抜く強靱な精神を持っているわけではありません。ですから、日々の稽古ではメンタルな部分も鍛えなければなりません。まるで、本場所で戦っているように稽古に挑むのです。こうした準備を積み重ねて習慣にしてしまえば、本場所で雑念に囚われることはありません。勝負は一瞬にして終わるので、考える時間はないのです。ただ行動あるのみという気持で向かうことで優位に立つことができます。


——他の競技と同じように、試合と同じ状態で練習を積むのですね 。

そうです。フットボールやレスリングも同じです。正しい方法で練習を行わなければ、土俵で成果を表すことはできません。稽古で手加減してはいけないのです。


——逞しい精神面も備えて、まさしく達人の域に達していますね! (笑)
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A gracious Musashimaru shares his insights on sumo, past, present and future.


私は天才ではありません(笑)。ただ黙々と働く普通の人間です。私は地道な努力を続ける尊さを幼少の頃から教え込まれました。両親は常に何事にも一生懸命に取り組み、物事をあるがままに受け取るようにと私を育てたのです。

——毎場所、同じ関取と顔を合わせるわけですが、彼らと個人的な交流はありましたか。

ありません。とりわけ、対戦する相手に対してはね。しかし、親方となった今は、より多くの会話を交わすようになりました。現役時代は多かれ少なかれ、誰もが自力に頼るだけという感じでしたが、引退後は本場所、イベント、会合などで顔を合わせて、お互いに交流を深めています。


——相撲の伝統について聞かせて下さい。

相撲の世界には素晴らしい伝統があり、私は深い畏敬の念を抱いています。しかし、現役時代の私は自分の相撲に集中し、あまり伝統に注意を払うことはありませんでした。勝つことのみを念頭に置いていたのです。一番一番の取り組みでの勝利、そして幕内優勝を果たすために自分の全エネルギーと集中力を注ぎ込んでいました。それ以外は私の領域ではなく、私が判断を下すことではありませんでした。勝つことが私の仕事で、人々もそれを私に望んでいました。伝統への意識はなかったのです。


——特に、思い出に残る一番はありますか。

貴乃花との対戦は常に素晴らしいチャレンジでした。彼は私が戦った相手の中で最高の力士だったと思います。


——朝青龍など、新世代の力士について感想を聞かせて下さい。また、彼をご自身の現役時代の対戦相手と比べたなら。

横綱まで昇り詰めた朝青龍は素晴らしい力士です。しかし、私が戦っていた頃の力士たちと比べたら体格には恵まれていません。誰もが朝青龍を私たちの時代に置き換えて考えようとしますが、彼は与えられた才能を思う存分に発揮すればよいのです。敢えて言えば、彼があの時代に居合わせていたなら今より厳しい状況になっていたと思います。どうしてなのでしょう、現在の大相撲界には大柄の力士があまりいませんね。もっと増やすべきではないでしょうか。小柄な力士たちが土俵で激突しても、それほど娯楽性を提供するものではありません。派手にぶつかり合う大型力士を輩出する必要があると思います。


——輝かしい実績を積み重ねてきた横綱武蔵丸が引退を決意した理由は。

ずばり、故障です。左手首が主たる原因でした。左肩にも力を入れることができなくなり、これでは横綱としての責任を全うできないと思いました。


——今では、肩の重荷が降りたと感じますか。

そうですね、今はリラックスしています。私の頭の上にはあの髷もありません。


——親方としての責務は。

私は親方になりましたが、自分の上にも親方がいて未だに修業中の身です。現役時代の日常とほとんど同じですが、稽古をするのは私ではなく、私は言葉で力士たちに説明しなければなりません。午前中の指導が私の主要な仕事であり、今はそれに力を注いでいます。


——発展途上にある若手力士への指導法は。

私の仕事は、彼らにはない私が持っているものを教え、彼らの達成レベルを示すことだと思っています。即戦的な技術向上を図りつつ、切磋琢磨することや集中することの重要さを教示する内面的指導も行います。誰もが力士の天性を持って生まれてきたわけでないので、困惑させないためにも一人一人のレベルに合わせて指導していきます。最初のレベルから少しずつ追加していくのです。そうすることで彼らは成長していきます。いくら厳しくしごいても、一度に全てを学ばせることは不可能ですから。それぞれの力士の成長段階を理解し、そこから少しずつ積み立てていくのです。


——US相撲オープンを始めとするアマチュア相撲についてのご意見を。ご自身は楽しめましたか。
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US Sumo guests and participants during a gathering in LA’s Little Tokyo.


素晴らしい相撲トーナメント大会で力士たちが全力を尽くす姿を見たいと思っています。アマチュア相撲の観戦も楽しみなのですが、彼らにはより深い知識が必要だと思います。日本のアマチュア力士はアメリカのアマチュア力士に比べてレベルが高いようです。日本は相撲をスポーツとして正面から捕らえ、技術的にも深みがあると思います。相撲は相手を押したり引いたりして倒すだけでありません。そこには勝負を越えた奥深い何かがあるのです。私はそれを彼らに教えたいと思っています。今回のUS相撲オープンには日本人も参加しているので、彼らの相撲を観ながら、他の力士が少しでも学んでくれるよう望んでいます。


——自由な時間が増えた今、何をして過ごしていますか。

音楽を聴いたり、ビーチでブラブラしたり、公園でリラックスしたりするのが好きですね。


——今後の相撲界の行方は。傑出したハワイ力士が再び誕生するのでしょうか。

今のところは未知ですが、私は努力を続けています。私たちは正当な方法論に従い、進むべき道を歩もうとしているのです。これは個人的な関心事の一つであり、私にとって大切なことです。誰もが愛する相撲を、アメリカを始めとして世界中に広めていきたいのです。力士たちの協力も必要です。私はできるだけUS相撲オープンや大相撲ラスベガス公演などのような機会を利用したいと思っています。 地球上の人々がこのスポーツの醍醐味を分かち合い、私と同じように相撲を愛する機会を持ってほしいのです。


武蔵丸光洋 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本名フィヤマル・ペニタニ。1971年5月2日アメリカ領サモアに生まれ、ハワイ島ワイアナエで育つ。高校卒業後日本に渡り武蔵川部屋に入門、関取を目指す。1989年初土俵。1991年7月に十両、同年11月に幕内入りとスピード昇進を遂げ、1997年春場所前に大関昇格、1999年に67代横綱にな る。現役当時の身長は6フィート4インチ(約193cm)、体重500ポンド(約227kg)。通算成績779勝294敗115休。幕内優勝12回のほ か、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞2回という優れた成績を残す。また、史上最高の通算連続勝ち越し55場所記録を保持。2003年に引退後、武蔵川部屋 の親方として後進の指導に当たりながら、非公認の相撲国際大使として活躍する。相撲の国際化促進のため、大相撲ラスベガス公演やロサンゼルスでのUS相撲 オープンなど、数多くのイベントに参加している。



(2006年5月1日号に掲載)